当時小学4年生の一人の男の子がテレビで公式試合を見ました。
自分も試合に出てみたいと父親(現、代表)に相談。これがきっかけでドッジボールチーム
「板橋ファイヤーズ」が誕生しました。
そのころは、体育館を学校から借りられず、近くの公園で練習をしていました。
ラインを足で引き、ヤカンに水を入れてコート作成していたのが懐かしく思います。
練習メニューも試行錯誤で試合に出ても勝てない事が多々ありました。
現在の部員のメインは京都市伏見板橋小ですが、京都教育大学付属桃山小・
京都市桃山小・桃山南小・住吉小からも参加してくれており、小粒揃いですが、
基礎トレーニングの積み重ねで頼もしく育ってきてくれています。
練習の甲斐があって、念願のカラーコートに立つことができました(平成16年3月・第13回クロネコカップ)。
これからも、ドッジボールを通じ“強い体”“強い心”を作っていき、ドッジを愛する全国の仲間と一人でも
多く友好ができることを望んでいます。



★板橋ファイヤーズ誕生物語  by Shintaro

■まえがき
 

 1998年7月19日。板橋ファイヤーズは公式戦にデビューしました。
その誕生には、次のようないきさつがあったのです。



 申し遅れました、私の名前は小野真太郎です。
 試合の約一月前、一九九八年六月の日曜日の朝の事でした、僕と恵太は京都テレビを見ていました。
「チャンチャチャーン!」という威勢の良い音楽とともに、テレビにドッジボールの試合の様子が流れ、
「集まれ全国の元気な子供たち!」という女性アナウンサーの声。
 今から思えば、そのときに映ったのは「夏の全国小学生ドッジボール選手権大会」の決勝戦の画像だったのでしょう。

 これを見た恵太は、その画像を見たとたんに立ち上がって叫んでいました。
「おとうさん!メモしてっ!これ!申し込もう!」 
 急いでメモをとりながら、僕も叫んでいました。
「よっしゃあー!トモダチ連れてこい!みんなで出るぞ!」

 そして一年半後に、我らが「板橋ファイヤーズ」は、好運にも京都府代表として関西大会に出場できることになったのです。
 これは、ファイヤーズが発足してから一年半の間に経験した十二回の公式戦と、一九九九年三月七日の関西大会までの、
 チームとその活動を見守ってきた人達の記録です。

■メンバー募集 

 さっそく恵太に次のような手紙を渡して、担任の先生の許可を得て学校でメンバー募集のプリントを配りました。

 ドッジボール大会に参加しませんか!
板橋小学校4年1組
保護者 小野真太郎

 初めまして、私は4年1組の小野恵太の父親です。
 先日、近畿放送を見ていたら、全国小学生ドッジボール大会京都府予選会。というのがあり、うちの子供が参加したいというので、
 試しに要項を取り寄せました。
 それで、今回は、「勝つために!」ではなく、「参加する事に意義がある」という感じで、申し込みをしました。
 まだ、抽選で参加できるかどうかわからないのですが、もし出場できるとなると、12名以上、20名までのチームでの
 参加ができる事になります。
 子供さんが参加を希望されて、保護者の方が許可していただけるなら、子供さんを通じて下記までご連絡下さい。
 なお、要項の概要は以下の通りです。

      ポロロッカ京都厚生会カップ
    第8回全日本ドッジボール選手権京都府大会
    <オロナミンC&ボンカレーカップ京都府予選>
    ■ 開催日      1998年 7月 19日(日)
    ■ 会 場 
京都市体育館(西京極体育館)
    ■ 対 象      小学校3〜6年生の男女で構成されるチーム
                  (12〜20名・男女混合可)
    
    ■ 出場チーム数   32チーム募集 (申し込みの多い場合は、
               予選会・先着順・抽選等で決定)
    ■ 申込み締切    7月3日(金)必着
    ■ 主 催      日本ドッジボール協会 KBS京都
    ■ 後 援      京都市、京都府教育委員会(予定)
    ■ 協 賛      大塚製薬 大塚食品 京都厚生会 
    ■ 問い合わせ先   KBS京都放送会館内 KBSプロジェクト
               大会準備局 075?414?6377

■練習と始めての試合 

 さて、練習は保育園の隣の公園でやることにしました。ボールは家にあったゴム製のドッジボールでした。
(今ではお馴染みになった黄色と黒の公式球に始めて触ったのは、当日の試合開始直前でした。)
 練習に来たのは、たっちゃん(岸本君)、ひろき(前川君)、とよまん(豊岡君)、ぐっち(川口君)、
 中ちゃん(中野君)、ともあき(柳川君)、井筒君、そして大ちゃん(星野君)や梓ちゃん(小田さん)や
 加奈ちゃん(廣野さん)が来るようになりました。毎日学校で一緒に遊んでいた子供達でした。
 僕は試合の抽選会に行き、ルールを書いたメモをもらってきましたが、ボールアップに意味がわからず、
 ボールを上に軽く投げてからパスやアタックをしていました。
 これがまったくの間違いだということも、試合の時にわかりました。
 始めての試合が、西京極での全国予選でした。自分たちでしか練習せずにルールもわからずいきなりの全国予選
 ユニフォームは学校の体操服。膝当てもなし、靴は学校の上履きでした。
 僕たちは半年後の関西大会にも白い学校の体操服で行ったのです。そんなチームはうちだけでした。 
 今のようなコーチもいませんでした。練習は全部子供達が決め、僕は笛を吹くのと時間を計ること、
 地面に線を引くこと、保育園の子供達が来たら笛を吹いて練習を止める事それだけをやっていました。
 しばらくの間は練習ボールも1球か2球だけでした。
 それでも毎週土曜日みんなで保育園横の公園に通いました。公園は大手筋のまだずっと向こうでした。
                             
1998年7月19日 夏の全国予選京都大会
 1勝2敗で予選落ちでしたがそれでも1勝しました。自分達の試合が終わっても最期まで残って閉会式に出ました。
出場メンバーは小野 井筒 豊岡 岸本 前川 真泉 川口 渋谷 中野 河村 横井 武藤 高見 萩尾 
藤上 御牧 柳川 でした。 

1998年11月23日 綾部ドッジボール大会
 二回目の試合です。1勝2敗で予選落ちしました。このとき3試合目に戦った、山家(やまが)小学校のチームには驚きました。
試合前には、へえ山の中にあるんだ。なんて思ったのですが、パスがうまく「これがチームなんだ。」
と思いました。このとき新たに星野 町田 小田 廣野 島田 の5名が参加しました。

1999年2月7日 春の全国クロネコカップ京都予選
 三回目の試合です。毎週土曜日の練習にはいつものメンバーが集まり練習はいつも大騒ぎで盛り上がっていました。
練習は試合形式が多かったですが、練習の時にケイタがキャプテンになることをみんなで決め、
パスやアタックの練習をするようになりました。
 試合のときはとても緊張しました。なにしろ大きな大会ですし、練習も頑張ってやってきました。場所は武道センターでした。

 予選では初戦のカミザトと引分け、2戦目の大枝西と3戦目のグレートパワーズに勝ち決勝トーナメント進出しました。
でも一回戦のメガネジュニア戦で負けてしまいました。そして、豊里西小学校との関西大会を賭けた5位決定戦でサドンデスとなり、
勝って関西大会への切符を手にしたのです。
 このときのメンバーです。小野 星野 井筒 豊岡 岸本 前川 町田 小田 廣野 島田 真泉 川口 中野。 

1999年3月7日 春の全国クロネコカップ 関西大会
 この試合の一週間前に書いた文章を見つけました。
「いよいよ来週は全国小学生ドッジボール選手権の関西大会の日である。我々「板橋ファイヤーズ」の十五名は、
いつもの保育園のグランドまで自転車で行き、今週も二時間半の練習をすませてきた。」1999.2.28
 このころもまだ保育園で練習していたのですね。結局関西大会では予選で一勝もできずに負けてしまいました。
そして試合に負けて帰ってきて家で書いた文章が残っていました。
「二年計画で。と始めたドッジボール。来月からはいよいよ五年生。
 そろそろ塾に通うのが忙しくなる年代。でも、みんなは続けるかな? 
はてさて、どんな試合になるのやら? そして、みんなはどれだけ強くなるのやら?     
NEXT

Itahashi Fires

 Home Team  Result  Topics  About  BBS  LINK Mail  

Itahashi Fires Official web site ―